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後藤純男~日本画家としての人生

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後藤純男美術館 館長 後藤 洋子

※本文は千葉県流山市制施行50周年後藤純男回顧展図録「父のこと〜後藤純男回顧展に寄せて〜」より一部抜粋したものです。

千葉県関宿(現 野田市)の真言宗の寺に生まれた父は、2歳の時に埼玉県松伏の宝蔵院に移り住み、22歳で画家として歩み始めた当初は、そのお寺の本堂の片隅で作品制作をしておりました。
日本美術院展覧会(院展)に於きまして入選を重ねて、ようやく流山市江戸川台に居を構えましたのは1962年、父が32歳の時でした。その頃は自宅から駅が見えるほど住宅も疎らだったそうで、遡ること約半世紀、今とは隔世の感がありますが時代は異なれど、おそらくは新天地での期待、高揚感は新たに流山に移り住まわれた皆様と、そうは違わぬものがあったのだろうと思います。

江戸川台の家に設えたアトリエは、幼い私の遊び場で、正座をして絵を描く父の横で私も腹這いになり筆運びを1日中飽きずに眺めたり、父からもらった画用紙に絵を描いたり、静けさの中でとても楽しく過ごしていました。
私が幼稚園に上がりますと、父は以前暮らしていた松伏の寺の横に戸建てのアトリエを構え、一方、江戸川台では寺の切り盛りをしていた父方の祖父母も共に暮らすことになり、両親、我々兄妹3人の家族7人での暮らしが始まりました。
祖父母への配慮から、父は松伏のアトリエに朝出掛け、夕方に帰宅するという生活でしたが、私が14歳の頃に祖父母が亡くなったことを機に「父は絵に集中したい」と申しまして、それからの20年は松伏のアトリエへ泊まり込むようになり、江戸川台での家族の暮らしは終わりました。
父親としての純男は何処かへ消え、何物かに憑かれたように絵を描き続ける「画家 後藤純男」となったように思います。
元々父は寺の後継ぎとして僧侶となるべく修行もしていましたが、寺は檀家も少なく貧窮を極めた生活でした。同じ苦労なら好きな絵の道でと「仏道を捨て、絵の道を選んだ」画家です。
「仏道」と「絵の道」。この二つの道は、其々違うようでありながら、時に交錯し、遂には一つの道に重なり、決して順風満帆とは言えない、度重なる挫折を経験しながらも86年の絵描き人生を全うした、父の精神的支柱となってきたものです。

画家を志した当初は、東京美術学校(現 東京藝術大学)を2度受験するも叶わず。人物画家志望でしたが、師事した田中青坪先生が所属なさっていたのは厳選で知られた院展で、審査に人物画と風景画の二点を出品したところ、人物画が落選したことから風景画へ舵を切ることになったりと、画家としての父の歩みは挫折感に苛まれたものでした。
自ら望んだ形ではなかったにせよ、風景画家として歩み始めたものの、困窮を極めた生活では、スケッチ旅行とて何処へ行ける訳でもなく、海も山も無い関東平野の只中で何をどう描いたものかと、途方に暮れる日々でした。
朝な夕なに自転車で通る江戸川の土手。夕暮れになると土手から見下ろす家々に明かりが灯り、日常的に目にしていた風景が「日中とは俄然居ずまいを変える」事に気が付くと、特別に人目を惹くものが無くとも、季節、時間帯、陽射しやその翳りといった事象で景色の移り変わる様を想像すること、そして其処からの自らの創造は無限なのだと「貧しさに貧しさが重なり、近在の田園風景を描くしかなかった」青年は、心情と絵画表現を結び付ける糸口に辿り着いたのでした。

25歳頃になると、寺の宗派の伝手を頼り京都や奈良の寺々に逗留させて頂く好機を得た父は、朝の勤行をして日中はスケッチをするという生活を約10年続けました。四国も含め50箇所以上の御寺を廻ったといいます。そうした日々の中、嘗て自分が幼い頃、寺で日常的に目にしていた本堂の金色の飾り。それらを心底美しいと捉えていた心情。

時期を重ねて30歳の頃からは、異国への憧れのような想いを抱いていた北海道へ、夜行列車を乗り継いでの取材も叶い、こちらも約10年に亘り綿密なスケッチを重ね、特に層雲峡では渓谷にポツンと独りで居る自分の小ささを知ると同時に、自然の偉大さに心打たれたという。北海道の自然との邂逅は、寺での貧しい暮らしに耐え、描き抜いて来た屈強な精神を更に強靭に鍛え上げるものとなり、厳しい渓谷風景や岩盤を描くことで、技術的にも様々な技法を試行錯誤した成果は「渓谷瀑布シリーズ」と呼ばれる作品群となり、父が日本画壇で頭角を現すきっかけとなったものです。

こうして心と技の修練場となった北海道風景の制作は、先に始めながらも内面での咀嚼が及ばず、作品制作に至っていなかった大和路取材を大きく高めるものとなりました。
自らの美の原点である寺の本堂。その金色の世界を大胆に、金箔や金泥を多用し描いた搭の風景は、父の代名詞とも云われる「堂搭伽藍風景」となりました。
北海道の渓谷風景を神々しいものと捉え、神仏は自然に宿ると会得した父は「風景画の中の仏画」への道を模索する中で、後年或るインタビューに対し、こう答えていました。
「上手く描いただけでは意味がない。そこに祈りの心がなければ・・・」
今展では父が各地を巡り描いた日本の風景美に加え、日本画のルーツとして大切に交流してきた中国の作品もご覧頂きたい見所の一つですが、父が初めて金屏風に描いた作品「桜花浄苑雙図」は、画精に憑かれた後藤純男が、父親としての想いを込めて描いてくれた数少ない作品です。

「後藤純男美術館」は作品を散逸させず一所で自作をご覧頂きたいとの思いで、父が自ら建てたものです。入り口の銅像が想起させるのか、思えば父が存命の時から「もう先生は亡くなられたのですよね」とのご質問に苦笑すること度々でした。
「作家が生きているうちは作品は正当に評価されない。自分が死んでから100年待て!」生死を越えて先を見据えた父の言葉に、今更ながら畏敬の念を感じずにはいられません。
死して父の身体は無くなりましたが、これからは美術館が父の身体になります。
そして、父の精神が作品の中に脈々と息づいていると感ずる瞬間「あぁ、父は未だ生きている」のだと実感するのです。

カナダのお客様が父の作品を「International standard」と評して下さいました。

後藤純男まだまだこれから!と思っておりますし、100年後が楽しみです。

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